ネーポンが製造されたのは、1955年くらいらしい。
今度もう少し詳しい歴史に書き直そうと思うが、
そもそもツルヤ食料品研究所は、その会社名の通り、食料品を作っていた。
確かパンかなにかを製造していたらしい。
創業したのは、上田豊氏。
そして、清涼飲料水を作って儲けるようになって、
高い志が出て来た。
その当時、清涼飲料水と言えば、砂糖、水、酸味料、香料のみでできたものが主流で、
当時の子供達は喜んで飲んでいたらしいが、
できるだけ子供にいいものを飲んでもらおうと当時の、創業者である上田豊氏が製造したのがネーポン。
ネーブル、ポンカンの果汁を使い製造した。
上田豊氏は、新しい物好きで、たくさんの飲料を開発、製造した。
ぜんざいを瓶に詰めた、元祖瓶詰めぜんざいや、銀座甘酒などが有名であったが、
神戸の地元で愛される、神戸の地ジュースと言われるアップルという清涼飲料水も、ツルヤ食料品研究所でも製造されていた。
ネーポンは売れ、ネーポンの利益と言うか、たくさんの飲料水が売れて、
ツルヤのビルが建った。
1990年頃になると、大阪の玉造と鶴橋の間にあった、アジアコーヒ日の出通り店の存在により、ネーポンが日本全国で注目される事態となる。事の発端は、作家、中島らもが、自信の著作「西方冗土」で、件のアジアコーヒで、ネーポンが販売されているのを目撃し、アジアコーヒの中に入ってネーポンを飲んでみたという体験記による。
そもそも何故アジアコーヒだか、ネーポンだかが注目されたのかというと、
上田豊氏の、子供のためを思って真摯にいいものを作ろうと製造した心意気の結晶である清涼飲料水ネーポン。ということで注目されたのではなかった。
アジアコーヒというぼろぼろの謎の店、
そして聞いた事はないが不思議な興味をそそるようなネーミングのネーポン。
当時であれば、ヒロポン等にも詳しい中島らも氏は、何か不思議な期待を持ってネーポンを飲んだようなのだ。
そして、現在でも関西で放映されている、テレビ番組、探偵ナイトスクープで、中島らも氏も出演し、ネーポンとアジアコーヒがとりあげられた。
その後、爆発的なネーポン人気に拍車をかけたのが、たけしさんまの世界超偉人伝説というテレビ番組だった。
たしか半年に一回とかの特別バラエティ番組だった。
世界中の奇人変人、偉人、そして何故か大阪の謎の店を取り上げる番組だった。
今考えると何故ネーポンでそんなに笑ったのかすらも謎だが、世界超偉人伝説で取り上げられたネーポンは、
もうとんでもなく面白かった。
現在では世界のキタノと呼ばれるビートたけしと現在でもお笑いの最前線の明石家さんま、共にBIG3といわれる、たけしとさんまの掛け合いは非常に面白かった。
たけしさんまの世界超偉人伝説の続編が放映されるたびに、アジアコーヒと、ネーポンの新しい話題が放映された。
当時にはもちろんインターネットもなく、ラジオで音楽を聴くようなおしゃれな奴もいず、
学校で話題になるのは昨日見たテレビ番組だった。唯一の子供のメディアと言っていいものがテレビだった。
おもしろいものが好きな大阪の子供達は、地元に謎のジュースがある事を誇りにすら感じていた。
テレビの放映後、アジアコーヒ日の出通り店に行くと、
たくさんの子供達がアジアコーヒ日の出通店に群がっていた。
瓶を記念に持ち帰りたいとい子供も多く、1本1000円等で、
アジアコーヒのおばさんは売り始めた。
それでも買う子供がいるのだ。
そのせいで、本回収されて何度も使えるネーポンの瓶の数が少なくなるという事態もおこった。
以後、1995年、阪神大震災が兵庫県で発生。壊滅的な被害を神戸市は受け、
もちろんネーポンのツルヤ食料品研究所も打撃を受け、取引先が半減。
ツルヤでは製造工場ビル内の一階で、
カフェをオープンする新しい試みもされた。
しかし以後は衰退の一途をたどる。
2005年、インターネットでのネーポン販売を行う。
新聞やテレビ、ラジオ雑誌等で取り上げられるが、
2007年ツルヤ食料品研究所閉鎖。
ネーポンに幕が引かれる。